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「EMとはシリーズ」―(2)

「EMとはシリーズ」―(2)

「EMとはシリーズ」―(2)
理事 萩原俊昭

昭和57年(1982)に農業資材として、琉球大学農学部 比嘉照夫教授(当時)が開発したEMは、農業資材にとどまらず、畜産、建設、教育、工業、医療福祉など、今や世界150カ国以上で使用され、54カ国でEM製造がされるに及んでいます。
そのEMはどんな動機と経緯で開発されたのでしょうか。
幼少の頃から農業に親しんでいた比嘉先生は北部農林高校時代に受けた「農は国の基なるぞ」との講義から、将来は農業の指導者になろうと決めたそうです。
当時、先端技術であった施設園芸を指導していた琉大の助教授時代に大きな問題にぶつかりました。一つは連作障害からハウスの土を客土しなければやっていけないことと、二つ目はハウスで採れたキューリなど作物が軟弱ですぐヘタってしまうことでした。
化学肥料と農薬の信奉者であった当時の比嘉先生は当然、思いっきり化学肥料と農薬を使いましたが解決することはありませんでした。

農薬や化学物質の恐ろしさを訴えて、昭和49年から新聞で連載が開始された「複合汚染」の著者、有吉佐和子女史の講演会に出かけ、「そんなのウソっぱちだ、農業を知らない素人が何を言っている!」と会場で叫んだほど、化学肥料と農薬の信奉者であった比嘉先生は毎日、ハウスに入って農薬を散布し続け、農薬で皮膚はただれ、ドクターストップがかかってしまい、有吉さんの説の正しさを認めざるをえなくなりました。
農園から、生き物がいなくなり、最も衝撃を受けたのは海の変わりようだった。それでも「農業を振興させるためには、目をつぶるほかない」というのが農業関係者のあいだの暗黙の了解だった。比嘉先生も「問題は使用量だ、使いすぎなければいい」と割り切った考えをもっていた。化学肥料と農薬を推進する一方で、さすがに農薬の無条件使用に疑問をもち始めたのもこの頃だった。

農薬・化学肥料ひとすじだった大学院の時代に、すでに微生物との付き合いは始まっていた。九大大学院の修2年のとき、福岡の知人が「微生物を使ったすばらしい資材がある」という話を持ち込み、後日、ビンに入れた微生物資材を持ってきてくれた。このビンは今も先生の研究室の棚においている。
その頃、思い出したことがある。それは、祖父から農業のやり方を習い始めてまもない小学校5年生のころ、祖父が「このなかにはビセイブツが入っているんだ」と話してくれた。堆肥の山を二つ作り一方の山にビセイブツを振りかけた。そんなことも忘れてサツマイモを収穫していたら、ある場所から急にやせ細ったイモばかりになった。育ちのいいイモはビセイブツを使った堆肥を入れ、やせたイモにはふつうの堆肥を入れた場所だったことを思い出した。

次号に続く

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