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朱鞠内からの手紙 第5回(会員 宮原 光恵)

朱鞠内からの手紙 第5回(会員 宮原 光恵)

春、融雪間近の朱鞠内湖
主食であるコメができない、、、この事実は私たちにとってずっしりと重い現実でした。下見キャンプから戻って約1カ月、二人の間に移住の話に関する会話がめっきり少なくなりました。夫も私も、先の見えない迷路に迷い込んでしまった行き詰まり感で重苦しい思いでいたのでした。
 ある日の夕食の時。夫が、「よし、そうだ、米は買おう!」と言い出しました。「完璧な条件のところなんてあるはずがない。何かを取ったら、何かを犠牲にしないといけないものだ。俺たちにとって、朱鞠内ほど条件の整った場所はもう無いかもしれない。米は買うことにして、それ以外の物を自給すればいいじゃないか。」夫の突然の提案に、私も即納得、そう割り切った途端、急に光がさしたように、私たちの会話はどんどん朱鞠内移住に向けてまっしぐら。翌日すぐに幌加内町役場に電話をし、研修農家さんを探してもらえるようにお願いしました。それから移住までの4カ月はその準備であっという間に過ぎてゆきました。

理想と現実のはざまで
 1995年4月16日にそれまで住んでいた埼玉の借家を出発し、こぶしの白い花がそこここに咲き、緑華やぐ道内各地をめぐりながらの引っ越しドライブ、21日にようやく旭川から江丹別峠に差し掛かり、これから住む幌加内町を見下ろしました。眼下は真っ白な雪原。季節が逆戻りしたかのようなその光景に、ごくりとつばを飲み込みました。やっぱり幌加内町は世界が違う、、、。周囲の町にはまったく雪がなかったのに、幌加内町にはその時で約70cmの積雪があったのでした。
 さっそく同町政和での農業研修がゴールデンウイーク前から始まりました。研修先は慣行栽培で約50haを耕作する大規模畑作農家さん。最初にご挨拶した時から、有機農業を目指す私たちとは相いれない価値観の方だったこともあり、夫は「俺たちはいずれあの人とは対立する。あまりひどいことにならなければいいんだけどな、、、。」とつぶやいたのを、私は今も鮮明に覚えています。
それからの約2年間の研修期間中、私たちは農業と農作業の実際を学びながら、慣行農業の現実
に大きな衝撃を受け、その一つ一つをどう受け止め、どうやったら有機農業や自然農法に切り替えてゆけるのかをひたすら考えていました。研修農家さんは、私たちを研修だけで手放すつもりが無かったこともあり、私たちが自分たちで独立するという話を持ち出すと大変な剣幕で怒り、就農地を朱鞠内に決めたことで余計に溝が深まり、研修を終えて就農するということは、町を巻き込んでとても大変な作業でした。慣行農業から見ると、有機農業は不可能なものであり、そんな馬鹿げたことをやろうとしている私たちはまるで犯罪者か頭がおかしい人のように扱われました。この地での有機農業は、四面楚歌の中で始めることになってしまったのでした。
 朱鞠内での就農地は、実は研修2年目の夏頃には概ね決まっていました。当時冬のアルバイトに夫は町に何とかお願いをして、朱鞠内湖のワカサギ釣りの漁場監視員をさせてほしいと頼みました。その現場責任者の方が「ちょうどもう年なので離農したい、俺の農地どうだ。」という話を持ちかけてくれ、その方の農地はどこかをお聞きすると、なんと私たちが下見キャンプで見つけて、ここに家を建てたい、などと勝手に話していた、その農地の地主さんだったのです。そのことを知ってからは、もう他の場所での就農は、私たちにとってはありえませんでした。

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