朱鞠内からの手紙 第6回 会員 宮原 光恵
朱鞠内で就農したい。本格的にその話を持っていくと、農業改良普及所には、畑作をやるなら十勝に行きなさい、と言われ、農協からは、朱鞠内で農業なら畜産も兼ねないと無理だ、と言われました。それでも朱鞠内で畑を、と言うと、やれて2年だな、というのが、地元の関係者の見解でした。
それだけ大変なことなのだと今なら思いますが、当時の私たちは、何が何でも朱鞠内で有機農業をやるんだと思い込んでいましたので、現実の厳しさは想像が出来ませんでした。それどころか、慣行栽培でさえ美味しい朱鞠内の作物。この気候で有機栽培で作物を作ったなら、どんなに美味しいものができるだろうと思うと、もういてもたってもいられないほどわくわくしましたし、ようやく自分たちの思い通りに農業が始められるという開放感で、専門家のアドバイスはほとんど耳に入っていなかったという気がします。何しろ、自分たちの手で有機栽培ができることが何よりもうれしかったのでした。1996年12月30日、私たちは研修地から朱鞠内への引っ越しをしました。引っ越し荷物を最低限片付けて正月明け早々私たちが最初にした行動は、札幌のEM技術研究所に、EM農法を教えてもらいに伺った事でした。
EMとの出会い
EMを始めて知ったのは、まだ埼玉で農業を模索していた頃、私の母親からもらった情報からでした。「EMという何だか微生物を使った農業があるらしい、いいものらしいから調べてみたら?」母からのその言葉で、初めてEMという存在を知り、意識しだしました。1994年頃だったと思います。当時EMは様々な生活情報番組で取り上げられ、生ごみたい肥の作り方や水質浄化の取り組みがTVで盛んに報道されていましたので、すぐにこれはすごい、と思い、出来る範囲での情報収集を始めました。けれどもそういったTVからの情報では得られるものは限られていました。自立出来たら絶対に札幌まで行って、EMの使い方を徹底的に学びたいと決めていました。
1997年1月8日だったと記憶しています。午前10時に萩原所長さんと初めてお目にかかり、お話をお聞きしました。が、私たちのその時の様子は恐らくただ事ではなかったと思います。何しろお話が始まってからというもの、聞きたいことが多すぎて、次々に質問しているうちに、人が入れ替わりながら話し続け、ハッと気がついた時にはもう午後4時をまわっていました。片時も休憩することなく集中していて、時間が経つのをすっかり忘れていました。お昼をまわっているどころか、もう夕方でした。お腹がすいていることも気がつかなかったのです。それにしても、突然訪れた初対面の私たちに、丸一日皆さんでお付き合いくださり、EMについて詳しく教えてくださった札幌のEM技術研究所の皆さまには、心からお礼申し上げます。本当に忘れられない一日でした。